語り部通信

『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで
      ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる――

15 ほどく、ゆるす、ときはなつ。

五木さんは、『人間の運命』(東京書籍、2009年)のなかで、仏教がめざす真の目的は「輪廻の思想を断つ」こと、つまり輪廻観という呪縛からの解脱(解放)ではないかと書いている。
 そもそも、輪廻観(輪廻転生=死んであの世に還った霊魂が、この世に何度も生まれ変わってくること。人間以外の動物などへの転生も含む)は、インドで仏教が発祥する以前のバラモン教(ヒンドゥー教の前身)後期に、「善因楽果・悪因苦果・自業自得」という因果応報の法則と結びついたといわれる。当初、ブッダはこれを仏教理解の手法として、この輪廻を苦ととらえ、仏教は輪廻からの解脱を目的とするという方便(一時的な手段)としたとも言われるが、変化球をきらう五木さんはど真ん中、直球勝負を挑んでいる。

よく言われることには、この人間世界は輪廻するものと考えられていた。人は前世、または現世の行いの善悪によって、さまざまな世界に生れ変る。その六道輪廻はつきることがない。この生れ変り死にかわりする永遠の輪廻世界は、人びとに信じられ、大きな不安と恐れを抱かせた。それがすなわち苦である。自分が前世の結果として悲運、不運な生活を送らねばならないとすれば、それは苦以外のなにものでもない。また、いま現在の善行悪行が、来世に報われると想像するのも苦である。この抜きがたい輪廻の永遠の繰り返しから抜け出すのが、仏教の教えだと教えられてきた。
 しかし、輪廻の鎖を断ち切ったところに何がのこるのか。永遠の死か、永遠の停止か。
 いまになって、私がやっとわかったことは、仏教とは輪廻の鎖を断って、自由になることではない。輪廻観というか、輪廻思想こそが断たれるべき相手なのだ。人間は永遠に六道をさまようという、その世界観にピリオドを打つ思想こそが仏教なのである。
 輪廻そのものよりも、輪廻という見方、考え方のもとに、自由を失い、前世や未来を不安に思う、とらわれた生き方を否定するのが仏教だろう。

【『人間の運命』第四章「人類の背負った運命」 177〜178ページ】

『日本大百科全書』(小学館、1987年)には、「六道とは仏教の輪廻思想において、衆生がその業に従って死後に赴くべき六つの世界。地獄道、餓鬼道、阿修羅道、人間道、天道をいい、人間・天の二道は善趣、ほかの四道は悪趣とされる」と説明されている。現世で徳行(善果)を積まず、悪行(悪果)ばかりを働いた人は地獄に堕ちるだけでなく、来世は人間以外の動物や虫に生れ変って、想像を絶するような苦を受けることになる、という考え方である。
 しかし、親鸞は「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、つまり「(自力作善の)善人さえ往生するのだから、まして(他力に頼るほかはない)悪人はなおさら往生できる」として、それまで奉じられていた仏教的「善悪二分論」を一刀両断に切り捨てたのである。

ところで、「仏(佛の略字)」はサンスクリット語のbuddha(覚者、悟りを開いた者の意)ということばを、インドから仏典を持ち帰った中国唐代の僧・玄奘三蔵が「仏陀(ブッダ)」という漢字に音訳したものである。
 日本では、これを「ブッダ」という音読みだけでなく、和語の「ほとけ」という訓読みも加えて、ふたつ並行して用いるようになった。実は、和語「解(ほと)く」がもつ意味と音霊が、「ほとけ」という訓読みの基になっている。そこには、固く縛った結び目を「ほどく+ゆるめる」ニュアンスがある。それは、いわば自分のこころを自分で無意識に縛っている「自縄自縛」を解くことであり、やはり同じように相手のこころをがんじがらめに縛りつけている「執着」のこころを放つことでもある。
 さらに、和語の「ほどく」と同じように、和語の「ゆるす(許す、赦す)」にも、「ゆるむ(弛む、緩む)」、あるいは「ゆるめる(弛める、緩める)」などのニュアンスがある。
 自分では相手を絶対に「ゆるさない」でいるつもりが、ほんとうは自分のこころを「ゆるさない」、あるいは「ゆるませない」で固く縛りつけているのかもしれない。「(相手を)許せない」ときのこころは、そのまま「ゆるまない(緩まない)」からだとしてあらわれる。
 そして、からだを「ゆする(揺する)」動き、あるいは「ゆらす(揺らす)」動きによって、とても不思議なことには、こころまでも自然と「ゆるんで」くる。それはつまり、こころ(頭脳の知恵)でからだを「ゆるめ」ようと考えるのではなく、からだ(身体の智慧)本然のはからいにまかせて、身心をまるごと「ゆるす(ゆする)」こと、それが身心を「ときはなつ(解き+放つ)」動きになるのではないだろうか。それまで自分自身を縛りつけていた、目に見えない何かから「とき+はなたれた」とき、「やはらかな」こころ、「くつろいだ」からだが、生き生きとした本当の姿をあらわしてくる。

16 遠藤周作流ボランティアの「菩薩行」


遠藤周作さんの没後、はやくも18年が経過し、「心あたたかな医療」運動から生まれた遠藤ボランティアグループも、活動31年目を迎えた。発足時、遠藤さんに命ぜられた「顧問」に加え、数年前からは同グループ「代表」も兼任して今日に至っている。
 この病院ボランティア活動は、もとより手弁当、無報酬の奉仕活動であるが、それはいったい誰のためのものなのか、改めて考えてみると、その答えはそう簡単には出てこない。
 たとえば、患者さんのためというと、どこかうそ臭い偽善的な匂いがする。かといって、自分のためといえば、どうしてもエゴイスティックで利己的な響きばかりが気になる。
 しかし、ここしばらくの間、とくに『深い河』を読み直しながら、遠藤さんの作品に登場する「病院ボランティア」はどう描かれているのかをさぐる、絶好の機会が与えられた。

視線の向う、ゆるやかに川はまがり、そこは光がきらめき、永遠そのもののようだった。
「でもわたくしは、人間の河があることを知ったわ。その河の流れる向うに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような気もする」
彼女は五本の指を強く握り締めて、火葬場のほうに大津の姿を探した。
「信じられるのは、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変っている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」

 【『深い河 ディープ・リバー』十三章「彼は醜く威厳もなく」】

美津子の独白から、サンスクリット語のbodhisattva(悟りを開き、如来に成ろうと修行する者の意)を漢訳した「菩薩(菩提薩?の略称)」が、病院ボランティアに重なってくる。菩薩とは「己(おの)れ未(いま)だ度(わた)らざるさきに、一切衆生を度さんと発願・修行する者」であり、ブッダが悟りを開く以前の修行時代をあらわすことばでもある。私はまだ修行中の身だが、「お先に(真理の彼岸に)お渡りください」とうながす人である。
 やはり仏教のことばである「如来(來)」はブッダの呼び名のひとつで、サンスクリット語tathaagata(真実のままに現れて、真実を人々に示す者の意)を漢訳したものだ。

「菩薩」がなすべき思いやりの実践徳目「六波羅蜜」のひとつに、「布施」、つまり「広くほどこし、見返りを求めない」という行いがある。そのなかには、目に見えるかたちでの「財(金銭や物品)施」だけでなく、目では見えないかたちの「布施」もたくさんある。
 たとえば、いつも明るく優しい笑顔で接する「眼施」や「顔施」、温かいことばをかける「言施」、恐怖心をとり除いて穏やかな気持ちを与える「無畏施」、喜んで身の回りのお世話をする「身施」などもある。遠藤ボランティアグループはきょうもまた、いつものように生き生きと楽しく、病院ボランティアという遠藤周作流「菩薩行」に出かけていく。
 (完)

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