連載コラム『病院はチャペルである』――遠藤周作の祈り――
新緑がまぶしい五月晴れの午後、東京・荻窪にある東京衛生病院を遠藤ボランティアグループで同病院のボランティアコーディネーターを務める間宮加代子さんといっしょに訪れました。
わたしたちの講座(勉強会)で講師をお願いしたこともある、笑顔がすてきなチャプレン(病院専属の牧師)、永田英子(ながたひでこ)さんにお目にかかるためです。
先ごろ創立88周年(1927年設立、1929年診療開始)を迎えた東京衛生病院は、キリスト教(セブンスデー・アドベンチスト教会)の精神に根ざした医療を行っている病院です。 遠藤ボランティアグループの活動メンバーを受け入れていただいたのは、いまから34年前(1983年)のことですから、ちょうど遠藤周作さんが讀賣新聞に寄稿した「患者からのささやかな願い」から始まった「心あたたかな医療」運動の草創期のころでした。
当時、私が雑誌記者として在籍していた『わたしの健康』編集部では、遠藤さんの「心あたたかな医療」に賛同して、1982年7月号から読者への呼びかけを開始しました。そして、読者が推薦した「心あたたかな病院」の中に、この東京衛生病院があったのです。
『「心あたたかな病院」を推薦してください』
ご自分が、あるいは家族のかたが体験された、心あたたかな病院をご存知のかたは、その病院名をお知らせください。心あたたまる医師、看護婦さんのエピソードがあれば、そのこともぜひ書き添えてください。 (ただし、病院の自薦ではなく、あくまでも患者さんの推薦をお願いいたします)
牧師さんのカウンセリングがある病院
私はこの春に10日間、初めて入院生活というものを体験しました。この病院は、それまで私が抱いていた入院というイメージを、根本から変えるほどでした。 その病院は東京・杉並にある東京衛生病院です。この病院には、遠藤先生がご希望なさっている礼拝堂が設けられています。毎朝11時から、希望者はそこで牧師さんと礼拝します。また、病気が重くてベッドから動けない人のためには、礼拝の様子を枕元で聞けるスピーカーもあり、牧師さんが病室まで訪問してくれたりもします。患者の心理的な問題を牧師さんのカウンセリングで解決しようというわけですが、私にはお医者さんや看護婦さんも牧師さんにおまかせというのではなく、いっしょになってとり組んでいるように見受けられました。
(東京都・学生)
(『わたしの健康』1982年7月号、199~200ページ)
この号で読者が推薦した「心あたたかな病院」の中には、大阪市東淀川区にある淀川キリスト教病院の名前もありました。その半年後、『わたしの健康』1983年1月号で、遠藤さんがホストを務める新春座談会『「心あたたかな病院」の輪を大きく広げよう』を企画して、東京衛生病院・林高春院長、淀川キリスト教病院・白方誠彌院長をお招きしました。
少々長い引用(再録)になりますが、その座談会での貴重な発言をご紹介しましょう。
潜在的ボランティアを生かせないか | |
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林 | よく患者さんで、「私が死ぬときは、ぜひこの病院で死なせてもらいたい」と言う人がいて、看護婦たちはいやがるんですが、私はこんな名誉なことはないと思うんです。 |
遠藤 | 病院というのは、日本人にとって、死といういちばん苦しいテーマと向き合い、初めて人生というものを考えるチャーチ(教会)だと思うんです。それも、牧師さんがきてお説教するという意味ではなくて、そこにいる人間同士のコミュニケーションによって、チャーチになりえるという気がします。 |
白方 | うちは朝礼を礼拝形式で毎日やっていますが、それには職員だけでなく、患者さんにも出られるようにオープンにしています。 |
林 | 私たちの病院にもチャペルがあります。職員礼拝のほかに、11時から患者さんのための礼拝を毎日やっています。患者さんの中には待ち時間をねらって出る人もいます。 |
遠藤 | (中略)患者とお医者さまがいっしょに祈っている姿というのは、苦しみを共有しているということで、とってもいいと思うんですけどねえ。 |
林 | 私たちも、実際に末期や慢性病の患者さんたちで、もっといろんな話をしてあげればいいと思うんですが、どうしても時間的な制約がありまして。その点、看護婦やチャプレン(病院付牧師)が大きな役割を果たしているわけですが、同じ看護婦でも、この人には話しやすい、あの人には話しにくいとか、あるいは医師には話せないことでもケースワーカーには話せるとか、そういうことがあるんですね。 |
白方 | そうですね。いろんな人が行って、いろんな話を聞いてあげるというのが、患者さんにとっていいことだと思います。 |
遠藤 | 非常にいいことですね。苦しみというのは、結局、孤独感です。特に慢性病や末期の患者さんというのは、夜が苦しい。5時の夕食のあとは、検査もない、見舞客もいない。じっとしているだけですから、そのとき、ぐちをただ聞いてくれるだけのボランティアというのはできないでしょうか。 |
林 | 患者さんに接するには基本的なテクニックがあると思います。それを知らない人は、たとえ善意でやったとしても、トラブルを起こすおそれがあります。ですから、そのトレーニングを受けていただければ、かなり患者さんの助けになると思います。 |
白方 | 私の病院では昭和37年から病院ボランティアが始まったんです。最初は3人の美容師が患者さんの髪を洗ってあげたところ、とても喜ばれて、みるみる元気を回復し、退院できるようになったというのがきっかけだったと聞いています。現在では、個人で140名くらいおります。 |
遠藤 | そのかたたちは、話を聞いてあげるという段階もやりますか。 |
白方 | いまのところ、寝たきりの患者さんをお風呂に入れてあげるとか、買い物をしてきてあげるとかで、話しを聞いてあげるボランティアは、やはりカウンセリングの方法を学んでいただきませんと…… |
遠藤 | そういうボランティアのための講座があるといいですね。チャンスがあればそういうことをやってみたいという、潜在的ボランティア予備軍はたくさんいるんですから。 |
林 | 実は私たち、ことしからそれをやろうと計画しているんです。いわゆる家庭看護のテクニックから始まって、そういう話の聞き役といいますか、カウンセリングの基礎講座まで学んでいくコースです。 |
(『わたしの健康』1983年1月号、199~200ページ) |
この座談会のあと、私は改めて林高春院長をお訪ねして、遠藤ボランティアグループの受け入れを打診しました。林院長は、「(講座で)学びつつ、(病院ボランティアとして)活動する」という遠藤さんの考え方に賛同され、ほどなく東京衛生病院での病院ボランティアが始まったのです。現在では、東京衛生病院のボランティア養成プログラムを受講したボランティアの皆さんと、私たちのメンバーがいっしょに活動しています。そして、「東京衛生病院ボランティアの10のルール」は、私たちの活動指針のひとつになっています。
「病院ボランティア三名で各自月一回、ピンクのエプロンをつけて病室に入り、テーブル拭きやコップの交換などをしながらの作業で、短い会話を交わすこともあります。ときにはお話しないこともありますが、患者さんのそばによりそうことが傾聴だと思っています」
私たちのメンバーの一人である間宮さんは、実際のボランティア体験を通して、遠藤さんが考えた「患者のぐちを、ただ黙って聞いてくれるボランティア」としての傾聴を、このようにとらえています。
たとえ言葉を交わさなくとも、傾聴はできていると言うのです 。
永田チャプレンもまた、遠藤ボランティアグループのHPに寄せた一文で、「当院では傾聴するだけのボランティアは募集しておりません。傾聴とは(患者さんの傍らで話を聞くという)ひとつの行動ではなく、継続的な(心の)姿勢だと思うからです」という意味のコメントをしておられます。
この日も、永田チャプレンは、あるボランティアのかたが、その日に予定していた作業がキャンセルになったので、「(病棟の廊下で)用のない人として立っていたら、看護師さんやエード(看護助手)さんから、いろいろなことを頼まれました」とうれしそうに語ってくれた、というエピソードをご紹介くださいました。
それは奇跡など起こせない、ただ苦しむ患者のそばにいる、その眼に深い悲しみをたたえた、永遠の同伴者としてのイエス・キリスト、愛の働きとしての神……
最晩年の作品『深い河 ディープ・リバー』で、神父の大津に「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」と言わせた遠藤さんの思いは、さきの〈心がけたいこと〉にあった「聞かないで、聴く」ボランティアの心のなかに、いまも生きつづけています。