語り部通信

『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで
      ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる――

7 「玉ねぎは愛の働く塊なんです」

1980年代後半から90年代はじめにかけて、遠藤周作さんは、キリスト教にかかわりの深い作家や芸術家(音楽評論家の遠山一行氏、同夫人でピアニストの遠山慶子氏、作家の森禮子氏、加賀乙彦氏、三浦朱門氏ら)とともに「日本キリスト教芸術センター」を設立し、毎月の勉強会「月曜の会」を開催していた。
 この勉強会では、一時間ほど講義を聞いたあと、大きなテーブルを囲んで、講師にさまざまな質問をするのだが、いちばん熱心に質問するのはいつも遠藤さんだった。のちにノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊さんも好奇心旺盛な会員の一人で、物理学とは異なるジャンルについても次々に鋭い質問を発していた。
 このころ、エリザベス・キューブラー・ロス(精神科医)著『死ぬ瞬間』(1971年、読売新聞社)、シャーリー・マクレーン(女優)著『アウト・オン・ア・リム』(1986年、地湧社)、イアン・スティーヴンスン(精神科医)著『前世を記憶する子どもたち』(1990年、日本教文社)、アンドルー・ワイル(統合医療医)著『人はなぜ治るのか』(1993年、日本教文社)などの本を通して、「死後の世界」「転生(生れ変り)」「病気の意味」に深い関心をもち始めた遠藤さんは、ユング心理学、仏教学の第一人者を、「月曜の会」に招くようになった。

ユング心理学の泰斗で心理療法家の河合隼雄さんは、昔話を題材に「グレートマザー」を解説した『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』(講談社、1994年)などの著書があり、もちろん遠藤さんとは旧知の仲で、「月曜の会」でも講演している。遠藤さんは私たち編集者と話すときは、キリスト教の神学でいう「神」でなく、「グレートマザー」や「サムシンググレート」という表現を好んで使った。これはユング心理学でいう集合的(普遍的)無意識のことだが、遠藤さんは「神なるもの」の意味で用いており、『深い河』では大津に「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」と言わせている。

「玉ねぎ」といえば、『おはなし おはなし』(河合隼雄著、朝日文芸文庫、1997年)のなかで、河合さんは神学生の大津が偶然口にした「玉ねぎ」という言葉が、偶然(共時性)の意味について深い関心をもつ遠藤さんの言葉であることにふれ、「玉ねぎ」が意味するもの、つまりユング心理学でいうイメージの象徴性について、三つのイメージを示すものだと書いている。

まず、玉ねぎは特有のにおいをもっている。それはときに「くさい」と表現したくもなる。すべて宗教はくさみをもっているし「うさんくさい」傾向さえもっている。しかし、それが玉ねぎの特徴だ。(中略)玉ねぎは生でも煮ても焼いても、フライにしてもおいしい。食べ方は好き好きである。二十一世紀の宗教性は個々人のそれぞれのあり方との関連が重要になるのではなかろうか、「玉ねぎは生で食うべし」とか「食うべからず」とか決めるのは難しいことだろう。
 玉ねぎは地下の存在である。それは天から語りかけたりはしない。地下にあって人の目に触れず、何もないと思っているところから急に芽を出してくるのだ。(中略)
 最後に、玉ねぎは球形である。といっても完全な球形ではない。楕円球と呼んだほうがいいのもある。ともかく、果肉が一枚一枚重なって球形をつくっている。ひとつひとつが集って全体を形づくる。ここにも宗教性に対するヒントがある。しかし、われわれがあわてて、果肉のひとつひとつを味わわず、中心に何があるのかと焦るときは、そこには何も見いだせないであろう。二十一世紀の宗教性は、中心には何もないと言うのだろうか。玉ねぎは玉ねぎだ。ほんとうの神はそんなのではなく、中心に何かある、と言うのだろうか。
 遠藤周作『深い河 ディープ・リバー』は二十一世紀の宗教性に対して、答えを提示しつつ、その深さの故に、答えのなかに問いをも内在させて終わっているように思われた。

【『おはなし おはなし』「玉ねぎ」 130〜131ページ】

8 どこに神はおられるのか

河合さんが示したイメージのひとつ、「楕円球」の譬えでいえば、神は玉ねぎの中心におられるに違いないと見当をつけて、どんどん麟片(果肉)を剥いていっても、玉ねぎの中心部には何もない。最後に残ったものは、剥いた玉ねぎの麟片ばかりであり、そこに神の姿を見出すことはできない。いったいどこに神はおられるのか、あるいは神はおられないのか。
 目前の些事に気をとられていると、全体を見失うことになるということわざに「木を見て、森を見ず」という言葉があるが、この「楕円球」の譬えはその逆であるように思われる。

つまり、「森(楕円球の玉ねぎ)」という全体像のイメージに、あるいは「森の奥(玉ねぎの中心)」に神の姿を追い求めるあまりに、その森を構成する一本一本の「木(麟片)」に宿る神のいのちを見落としてはいないだろうか、という視点が重要なポイントである。
 キリスト教の『旧約聖書』(「創世記」)では、神が天と地を創造し、そしてあらゆる生き物を創ったあと、それらを治めるために神に似せて人間を創ったとされている。
 つまり、創造主(神)と被造物(生き物)、そして神の代理人(人間)という三層(あるいは二・五層)構造になっている。いちばん上に、天地をつかさどる「神(楕円球の中心)」があり、その神の下に命運を預ける「生き物や人間(麟片)」がいると見ることもできる。
 それに対し、本来、仏教には天地創造神話的なものはないが、「山川草木国土悉皆成仏」、「山川草木国土悉有仏性」ということばがある。これは「生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものは、すべて成れる仏であり、仏性がある」という考え方で、まるで禅問答のようであるが、玉ねぎの話でいえば、麟片の一つひとつが成れる仏であり、その一つひとつに仏性が宿っていると考えることができる。 

ところで、カウンセラーの本松良太郎さんは、(ユング)心理学をテーマとするブログで、「父性的な権力」に優越する「神秘的な女性性」としての「太母(グレートマザー)」を論じている。

人類に共通する普遍的無意識(collective unconsciousness)の元型である太母(グレートマザー)とは、家庭において子供の成育に大きな影響を与える母性の象徴的なイメージであり、豊穣と寛容を象徴する女性(大地)が秩序と規律を象徴する男性(天空)に優越する母権制社会の力のイメージです。太母(グレートマザー)とは生命を再生産する潜在能力をもつ神秘的な女性性のイメージですが、生命力と神秘性を彷彿させる太母のイメージは、多産豊穣を祈願する古代社会の宗教祭祀の源泉になりました。(中略)
 キリスト教やイスラム教に代表される父権宗教は、人間をメタ次元から支配(監視)する天空崇拝に根ざしたものであり、秩序維持や来世の救済を約束する『父性的な権力』に従属する宗教です。母権宗教は人間を養い育てるという『生命力の強化』に重点が置かれますが、父権宗教は社会に規律(道徳)を与えて自由を制限するという『共同体の秩序』に重点が置かれるので、父権宗教は一般的に公共の福祉のために個人の自由を明文化して規制する法治主義との相性が良いと言えます。

 【「カウンセリングルームEs Discovery」】
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