語り部通信

『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで
      ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる――

5 インドに渡った大津の場合

三人目は、フランスで基督教の神父になったあと、どこかしっくりこない違和感を覚えてインドに渡り、現在ではアウト・カースト(不可触賎民)同然の身なりで、ガンジス河で死ぬためにやってきて行き倒れた人々を、河のほとりの施設やヒンズー教の火葬場に運ぶボランティアに身を投じた大津である。1979年、ノーベル平和賞を受けた修道女、マザー・テレサが開設したカルカッタのホスピス「死を待つ人の家」がよく知られているが、ここで活動するシスターはいずれもねずみ色のユニフォーム(修道服)を身にまとっている。
 インドで再会した美津子に、ヒンズー教のバラモン(聖職者)でもないのになぜと問われ、大津は「玉ねぎがこの町に寄られたら、彼こそ行き倒れを背中に背負って火葬場に行かれたと思うんです。ちょうど生きている時、彼が十字架を背にのせて運んだように」と答える。「でも、あなたの行為は玉ねぎの教会では評判が悪いんでしょう」と毒づく美津子だったが、大津はひるまずに、「でも結局は、玉ねぎがヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思っただけでなく、そのような生き方を選んだからです」と言い切る。そして、玉ねぎが十字架にかけられたとき、それを見棄てて逃げた弟子たちのなかに、玉ねぎが転生しているのだと言うのだ。

「玉ねぎが殺された時、玉ねぎの愛とその意味とが、生きのびた弟子たちにやっとわかったんです。弟子たちは一人残らず玉ねぎを見棄てて生きのびたのですから。裏切られても玉ねぎは弟子たちを愛し続けました。だから彼等一人一人のうしろめたい心に玉ねぎの存在が刻みこまれ、忘れられぬ存在になっていったのです。弟子たちは玉ねぎの生涯の話をするために遠い国に出かけました。(中略)以来、玉ねぎは彼等の心のなかに生きつづけました。玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」

【『深い河 ディープ・リバー』十章「大津の場合」】

サリーに身を包んだ美津子がガンジス河に全身を沈めたとき、すべての不快感が消えた。南側では白衣の男が死体の灰をスコップで流している。祝福された黄色の花やピンクの花も、死んだ仔犬の死体も流れていくが、それらにまったく無関心で、人々は水の中で動き、体を沈め、祈っている。はじめは「本気の祈りじゃないわ。祈りの真似事よ」と弁解していた美津子だったが、やがて「でもわたくしは、人間の河があることを知ったわ。その河の向こうに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何をほしかったのか、少しだけわかったような気もする」と思うようになっていく。

6 「神は存在というより、働きです」

『深い河』が発表された翌年、「人は死んだら、どこへ行くのだろう」と帯にある対談集『「深い河」をさぐる』(文藝春秋)では、俳優・本木雅弘さんとの対談「インドは何を教えてくれるのか」で、遠藤さんは次のように語っている。

遠藤  若い時は銀行家は銀行員らしく立居振舞をし、学校の先生は学校の先生、また父親は父親の顔を家庭で持たなくちゃならない。若ければ若いほど、そういう「生活の顔」を持たなくちゃならない。僕らくらいの年齢になると、生活というものが逆に薄くなって、人生しか残らなくなりますから。だから「生活の顔」じゃなくて、「人生の顔」をしたいと思う。とにかく死を迎えるのは、本木さんよりずっと早い。そうすると、インドへ行ったことで「生活だけじゃないぞ」という気持ちが強くなることは、とてもありがたい。インドでは生活と人生が一緒になっている。日本では生活しかない。日本の多くの人は生活だけがすべてという考えです。

 【『深い河 ディープ・リバー』三章「美津子の場合」から抜粋 99・101・103ページ】

それから十五年後の2009年、俳優である本木雅弘さんが自ら企画を持ちこみ、主役の納棺夫も務めた『おくりびと』が、第八十一回アカデミー賞外国語映画賞を獲得している。ガンジス河に流される死者の灰、きれいに清められた死装束、それぞれインドと日本という文化の違いはあるが、そこに「死」に照り返された「生」のかたちを見ることができる。
 また、雑誌『明日の友』に、遠藤順子さん(遠藤周作夫人)と作家・森禮子さんの対談を見つけた。とくに『沈黙』発表当時のカトリック教会の狼狽ぶり、遠藤さんの覚悟が見てとれる。

森  (前略)キリスト教の本質と人間の魂の問題を小説にされたのは遠藤さんが初めてじゃないでしょうか。『沈黙』は、発見された鉱脈から原石を取り出して、大事に磨きあげられたという感じがしました。あの当時はカトリックの教会側からずいぶん非難を受けられたようですけれど。

遠藤  主人が出席しなかったミサの最中、私に、ああいうものを書かれたら困ると神父様がおっしゃったぐらいですから、主人も覚悟を決めていたと思いますよ。

 【『明日の友』「対談 歴史の旅 人の旅」 2009年初夏号】
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